国宝後鳥羽天皇宸翰御手印置文
石版画複製 【限定200部】

日本文学史に燦然と輝く『新古今和歌集』を完成し、“歌聖”と謳われた後鳥羽院
乱世に翻弄されながらも歌を詠みつづけた生涯の、終焉の時に忠臣への深い感謝の念を遺した絶筆
いまも水無瀬神宮(大阪府三島郡)に伝わる国宝を軸装仕立ての石版画で限定復刻

所蔵 水無瀬神宮(大阪府)
監修 水無瀬忠寿
水無瀬神宮検印シール
【複製仕様】
技法 石版画
用紙 鳥の子和紙
工房 ミツムラ グラフィック
画面寸法 31.5x66cm
軸寸法 127x69.5cm
表装 一文字・風帯…鼡地線上唐草文金襴
   中廻し…渋利休地牡丹唐草文緞子
   上下…薄鼡色紬入無地
   軸首…黒塗九分

企画 報道出版株式会社
発売 毎日アート出版株式会社
税込価格 189,000円
(本体価格180,000円)

“歌聖”後鳥羽院と国宝 宸翰御手印置文
 公家と武士の諍いの時代に翻弄され“悲運の天皇”と呼ばれた後鳥羽院は、一方で歌道に秀で“歌聖”と称されるほどの歌人でもありました。万葉集、古今和歌集とならんで日本の三大歌集と呼ばれる『新古今和歌集』を勅撰されたことで永く名前を歴史に記憶されてきました。
 都から遠く離れた隠岐に流されて十八年、自らの余命がいくばくもないことを悟った後鳥羽院にとって、身を粉にして仕えてくれた忠臣・藤原親成の行き末だけが気に掛かる。深い感謝の思いで自らが崩じたあとせめて領地の摂津国の水無瀬・井口両庄と出雲国の持田・加賀の両地が無事に親成に伝領されることを願い、書き上げたのがこの「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」(昭和27年に国宝指定)。宸翰というのは天子自身で書いた手紙、文書のこと。その思いは自ら朱の御手印を加えることによってより確かなものとされました。現在手形と呼ばれるものの魁と言っていいでしょう。果たしてその遺言は遵守され藤原(水無瀬)親成は水無瀬の地に後鳥羽院の菩提を弔う御影堂を建立、現在の水無瀬神宮となっています。水無瀬神宮には宸翰御手印置文のほか、同じく国宝の「後鳥羽天皇像」(伝藤原信実筆)をはじめ多くの後鳥羽院ゆかりの宝物が収蔵されています。
 このたび水無瀬神宮の監修のもと国宝「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」を石版画でほぼ原寸に復刻、三段表装の掛け軸として仕立て上げました。後鳥羽院の心あたたまる絶筆をあじわい、御愛蔵いただきたく御案内申し上げます。
(読み下し分)
この所労さりとも   と思へとも 随日大事に
成れハ おほやう(大様)一定と思てある也、日来の
奉公不便に存れとも 便宜の所領も
なきあひた、力不及 於水無瀬・井口
両方、無相違知行して 我後生をも
返  とふら(弔)ふへし もちた(持田)は真念
すくに親成にゆつりたれハ よも父もたか(違)
へし 加賀ハ信氏にそたハ(給)はんすらむ
とおも(思)へとも おほこ(大子)にて とか(科)なからんに 一方
なりとても 親成をきゝなから 弟に給へき
道理なし おな(同)しく親成知行して
わか(我)こゝろニ信氏にもあつ(預)けんハ そのかき(限)り
なし 一の人・家人なとになりなハ 信氏は
官位もとゝこほ(滞)らすあらんにハ 父もそれ
をこそもて なさむすれ たと(譬)ひさりとも この
をして(押手)をそむ(背)きて この領々をもを
しとる(押取)ほとのことは いかてかあるへきと
こそ存すれ
            暦仁二年二月九日(花押)

(現代語訳)
 この病はさほどでもないと思っていたが、日を追って重くなっていくようで、この分では往生も近いものと思っている。日頃の奉公には感謝しているが、それに応える所領もあまりなく、誠に力不足のこと無念である。
 摂津にある水無瀬と井口の両地を(与えるゆえ)相違なく知行して、必ず我が菩提を後々までも弔ってくれ。また出雲にある持田も、まこと親成に与えるものであるから、よもや親成の父も(この我が遺志に)背くまい。加賀は弟の信氏に与えようとも思ったが、いっぽうに兄の親成がいて何の科(トガ)もなく、弟に与える理由もないと思い、(先の所領と同じく親成に与えるので)知行しなさい。(ただ、親成が)自分の判断で信氏に与えるというのであれば、それでもよい。信氏は摂関家の家来にでもなれば、官位の昇進もとどこおりなく、父も(そのような信氏をより一層)大切にするだろうが、たとえそうなってもこの押手に(示された我が遺志に)背いて、これらの領地を親成から奪い取ることは、決してあってはならない。
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